惜別ブルートレインなは・あかつき



ここでは、2008年3月15日のダイヤ改正で、惜しまれつつも、姿を消したブルートレイン「なは」「あかつき」の画像などを掲載いたします。


初夏の吉井川沿い
日の長い6月は、岡山県の吉井川沿いを走るときには、明るくなっていました。
川と山に挟まれたところを走っていました。
2006年6月3日撮影 山陽本線、和気〜熊山




集落を走り抜ける
岡山市郊外の古くからの農家が集まる集落の中を走り抜けていました。
2006年6月20日撮影 山陽本線、瀬戸〜上道




朝もやの中
朝もやのかかった夏の田園の中を、京都を目指して走っていきました。
2006年7月7日撮影 山陽本線、万富〜瀬戸




山間の田園を往く
緑の深い山間の田園地帯の中を走り抜けていました。
2006年8月16日撮影 山陽本線 上郡〜三石




真夏の海岸を走る
須磨の海沿いのカーブを走り抜けていました。
2007年8月11日撮影 山陽本線 須磨〜塩屋



ここにある画像は、すべて銀塩カメラ(機種は、ミノルタα707-si)で撮影して、CDフォト化したものです。


ブルートレイン「あかつき」は、1965年、東海道新幹線との接続で九州を目指す寝台特急の一番手としてデビューしました。
当初は、新大阪〜西鹿児島・長崎の運行でした。
1968年から1974年にかけては、増発が行なわれ、山陽新幹線博多開業直前には、7往復体制となりました。その時点では、使用されていた車両も、20系、14系、24系、24系25形の各客車と多種多様でした。
運行本数については、新幹線開業後は、整理統合で減少し、筑豊本線経由の列車や、「明星」併結の列車などがありましたが、それらは、国鉄時代のうちに、姿を消しました。
そして、国鉄最後のダイヤ改正では、新大阪〜長崎・佐世保に1往復運行されるのみとなりました。
JR化後は、運転区間を京都へ延長したり、3列シートの普通座席車(レガートシート)や個室寝台車の連結など、高速バスなどに対抗するための施策が行なわれました。
さらに、1998年には、山陰本線で運行されていた「出雲」のサンライズ化で、余剰となった個室寝台車を組み込み、個室寝台車の割合を上げるという動きもありました。
しかし、利用者の減少に歯止めがかからず、2000年のダイヤ改正では、佐世保方面行きが廃止され、日豊本線直通の「彗星」と併結になりましたが、2005年の秋のダイヤ改正で、「彗星」が廃止になると、「なは」の編成を短縮の上、運行時間帯を変更して、同列車との併結運転に変更されました。
ブルートレイン「なは」は、客車ブルートレインとしてのデビューは、1984年と比較的遅めでしたが、列車名の誕生は、1968年からで、当時、沖縄の本土復帰を願って、昼行特急に名づけられました。
1975年に、新幹線が博多へ開業すると、「なは」の名称は、583系電車による寝台特急に使用されることになりました。
1984年、使用車両が電車から客車へ置き換えられ、新大阪〜西鹿児島のブルートレインの仲間入りをしました。 当初は、B寝台車のみの編成でしたが、JR化後は、高速バスと対抗するために、普通座席車(レガートシート)や個室寝台車の連結という動きがありました。
2004年のダイヤ改正で、九州新幹線・新八代〜鹿児島中央(西鹿児島から改称)が開業すると、運転区間は、新大阪〜熊本に短縮されました。
さらに、2005年の秋のダイヤ改正では、「彗星」の廃止を中心とした、関西九州寝台特急統廃合の動きがあり、「なは」は、編成を短縮の上、運行時間を変更し、京都〜長崎の「あかつき」と併結運転されることになりました。そのとき、「なは」の普通座席車は、廃止となりました。
その結果、「なは」の運転区間が、京都へ延長される形となりました。
しかし、その体制も長くは続かず、2008年3月のダイヤ改正で、「あかつき」「なは」の両列車は、共に、長年の活躍を終え、関西と九州を結ぶ寝台特急の歴史にピリオドを打つことになりました。
新幹線が走らない地域への観光旅行などへ重宝がられただけあって、誠に残念ですが、利用客減少と車両の老朽化には勝てなかったのだと思われます。



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