惜別0系こだま



ここでは、2008年11月30日限りで、惜しまれつつも姿を消した、0系新幹線「こだま」の画像などを掲載します。


夏の朝
0系新幹線にとって、最後の夏になるある日。
「こだま629号」は、朝日を浴びながら走っていました。
2008年7月19日撮影 山陽新幹線・相生〜岡山




まもなく終点
岡山駅に近づく「こだま638号」。
まもなく終点です。
2008年9月2日撮影 山陽新幹線・岡山駅付近




人気者0系
「こだま638号」として、岡山駅に到着した0系。
回送列車として折り返すまでの間、列車のそばまで、カメラを持ったファンたちが集まっていました。
2008年9月2日撮影 山陽新幹線・岡山駅




一直線
「こだま638号」が、山間を一直線に走っていました。
2008年10月9日撮影 山陽新幹線・岡山〜新倉敷




朝霧の吉井川
朝霧かかった晩秋の吉井川を、「こだま629号」は駆け抜けていきました。
2008年11月26日撮影 山陽新幹線・相生〜岡山



ここにある画像は、すべて銀塩カメラ(機種は、ミノルタα707-si)で撮影して、CDフォト化したものです。


0系新幹線電車は、新幹線史上初の営業用車両で、1964年(昭和39年)の東海道新幹線・東京〜新大阪開業と同時に、営業運転を開始しました。
当初の車両は、客室側窓が大窓仕様でしたが、誕生後しばらくしてからの増備車から、小窓になるという変化がありました。
開業時の車両が老朽化で引退すると、小窓化された0系がその任にあたりました。
またその時期は、「ひかり」の多くで、食堂車が営業されていて、多くの旅行者に利用されていました。
しばらくの間、東海道・山陽新幹線では、営業用車両は、0系1種類の時代が続きましたが、転機が訪れたのは1985年(昭和60年)のことです。
次世代のスタンダードとなった100系が誕生し、徐々に0系を置き換えていきました。
1987年(昭和62年)、国鉄の分割民営化が行なわれ、東海道新幹線・東京〜新大阪は、JR東海の管轄になり、山陽新幹線・新大阪〜博多は、JR西日本の管轄になりました。
その当時は、まだ2社とも、「ひかり」「こだま」の両方に0系での運用が多数ありましたが、徐々に100系への置き換えが行なわれていた時期でした。
1988(昭和63年)年には、JR西日本管内の山陽新幹線・新大阪〜博多で、0系を大幅にリニューアルした編成による「ひかり」の運行が始まりました。
それは、「ウエストひかり」と呼ばれていたもので、グリーン車並みのシートを備えた普通車やシネマカーなど、当時の新幹線では、かなりサービス度の高い列車として知られていました。
シネマカーは、比較的短い年数で廃止になりましたが、「ウエストひかり」は、しばらくの間、山陽新幹線の人気列車として活躍していました。
また、家族旅行向けに、フリースペースが設置されていたこともありました。
しかし、車両の老朽化には勝てず、0系の廃車は次から次へと進行し、1995年(平成7年)には、東海道新幹線の「ひかり」から撤退し、0系の食堂車の営業も終了しました。
1999年(平成11年)には、東海道新幹線の「こだま」の運用もなくなり、JR東海管内での0系営業運転は終了しました。
そして、2000年(平成12年)のダイヤ改正では、山陽新幹線に、700系7000番台による「ひかりレールスター」が誕生し、「ウエストひかり」を一斉に置き換えることになり、同時に、0系による「ひかり」は姿を消しました。
また、それより少し前には、100系の編成短縮化による「こだま」への転用が始まり、0系の「こだま」編成を置き換えていきました。
こうして、0系の「こだま」は、急速に本数を減らしました。
その後も、「こだま」専用になった0系のリニューアル工事が行なわれ、塗色も変更されました。
それからも、0系は、徐々に数を減らしながら、「こだま」専用車両として、余生を送りました。
しかし、その時代も長くは続かず、2008年に引退することが決定しました。
そして、引退の約半年前、最後まで活躍する編成が国鉄色に復元されました。
こうして、懐かしい姿を見せながら、ファンやマスメディアなどから、注目を浴び、11月30日、最後の定期営業運転を終えました。
44年間、世界に誇る高速列車の顔として親しまれた0系には、心から感謝と労いの意を申し上げます。



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